〜いつでもどこでも仏さま〜(随所作主)
今年度の「花園会推進テーマ」として揚げられている表題です。
(随所作主)とは、臨済宗の開祖臨済義玄和尚の語録『臨済録』に「随所に主と作れば、立処は皆真なり」とあります。
意味するところは、「今がいかなる状況であっても、自分がその場の主人公であると思って真正面から向き合っていれば、今立っているところはすべてが真実になる」との教えです。
保育園に息子を迎えに行ったときのこと、園庭で遊ぶ子供たちの姿はまさにこの言葉通りではないかと感じました。
いつでもどこでも真剣勝負の主人公たちです。子供たちに「今ここを生きている」と教わるようでもあり、ほほえましい光景でした。
以前テレビや新聞で、何のために生きているのかわからず悩む人が多いと特集するものがありました。
確かに中学校では高校入試のために勉強し、高校では大学、大学に入ったら就職活動、社会人になったら老後の・・。
常にこれから先のことばかりを考える生き方になってしまうと、今ここを生きてはいない。
子供たちに聞かせたい、仏教に伝わるこんな話があります。
お釈迦さまが悟りを開かれた後、苦しむ人を救おうと各地で教えを説いてまわっていました。
ある男が、お釈迦さまがある町にいるという噂を聞き千載一遇のチャンスと仲間と村を出ます。
途中、嵐に襲われ仲間とはぐれ、通りすがりの羊飼いの家に助けを求めました。
翌朝、旅支度して外に出ると、昨晩の嵐で羊が逃げ出してしまい必死になって探しまわる羊飼いの姿があった。
男はすぐにでも出発したかったが、一宿一飯の恩義を思うと放ってはおけず、出発をあきらめて一緒に羊を探すのですが、捕まえるのに三日も要してしまう。
再び旅に出て、途中、ある農家に立ち寄って水を分けてもらいます。
急いで出発しようとすると、農家の娘に畑の刈り取りが出来ないと助けを求められ、手伝うことになります。
結局、収穫に三週間もかかってしまい、ようやくお釈迦さまがいると聞いた町に到着したときには、出立をされた後でした。
男は後を追っていくのですが、あと少しというところでいつも何かが起き、出会えぬまま二十年という歳月がたつ頃、お釈迦さまが涅槃に入られるという噂が聞えてきました。
この機会を逃したら会うことはできないだろうと意を決するものの、またあと一息というところで怪我をした鹿に遭遇しました。
いったんは見捨てようしたものの、引き返して看病をすることに。
すると、「もう私を探すことはない」と声が聞こえ、光り輝く中で鹿がお釈迦さまの姿に。。
「もしあなたが昨晩私をここに残して立ち去っていたら、きっと私には会えなかったでしょう。あなたのこれまでの行いと共に私はつねに一緒にいました。これからも私はあなたの中にいます」
と言葉を聞き、男は涙するのでした。
自分の揚げた目的通りの人生を送れたら素晴らしいでしょうが、そのために様々な縁を断ち切るようにして生きるならば、それはそれで孤独で虚しいかもしれません。
まさかと思うような事、不本意な事、予定になかった事が起こり、だからこそ人生は、実り豊かなものになっていくのでしょう。
随所に主となりいつも自分の行いの中に仏さまがいると思えば、自分の目的が遂げられなかったとしても、周りから取り残されていると思うような事があっても、これまで生きてきた道筋、今やっていること、そしてこれから起こるであろうことに対して、もっと向き合っていけるのではないでしょうか。
お寺では、夏祭り、お施餓鬼、写経会、…等々様々な行事イベントを開いております。多くのご縁を育んでいけたら幸いです。
法要ご参拝の案内をご覧になるにはこちらからどうぞ。