動画と記事の提供元:岐阜新聞
『龍門寺の竜』
むかし、神渕(かぶち)の里というところは、美濃(みの)と飛騨(ひだ)のさかいに近く、たいせつな通り道になっておったので、よくここを旅人が通ったとのことだ。
ある年のことであった。
ちょっと見なれぬ、ふう変わりな旅人が、この村へはいりこんできたと。
それは髪(かみ)の毛をぼうぼうにのばし、やぶれ着物を着て、こしによれよれの手ぬぐいをさげていた。
そのかっこうは、どうみても、その日ぐらしのまずしい男に見えた。
子どもたちはものめずらしそうによってきた。
「おんし、どっからきたんや」「飛騨の山おくからさ」「どこへゆく」「おら、都へゆくんやさ」「なにしにゆく」「………」 気のよさそうなその男は、しばらくだまっておった。
すると、子どもたちはよってたかって、男の持っているふくろを取りあげて口をあけた。中からは、布(ぬの)に包んだぴかぴか光る「のみ」が出てきた。
「こら、あぶないからなぶったらあかん」と男は大きな声をあげて、その「のみ」をだいじそうにしまいながら、「これでなあ、ひとしごとやりたくてのう」とつぶやくようにしゃべった。
子どもたちはなにやらわけがわからず、これは変な男だと思ったのか、ばらばらとかけだしていってしまった。
そのとき、その子どもたちの後ろにひとりの坊(ぼう)さまが立って、このありさまを見てござった。それは、村の龍門寺(りょうもんじ)の和尚(おしょう)さまであった。
「もし」と男をよびとめられた。
「なにかご用で」とふりむくと、「あんたは都へのぼって、しごとをしたいと言われたが、しばらくわしの寺に休まれたらどうじゃな。
そのうちにええしごとも見つかるかもしれんからのう」。
和尚さまは、しんせつに言われた。すると、男はひげもじゃの黒い顔をほころばせて、「では、おたのみ申す」と、ぼうぼう頭を、ぽっくりさげたそうな。
それから男は、この寺にとまることになったが、どうしたことか、なにもしごとをしようとせず、毎日、のらくろと遊んでばかりおった。
この寺には、龍門寺という名にちなんで、座敷(ざしき)の四まい続きの大きなふすまには墨絵(すみえ)の龍(りゅう)がかいてあった。
それは一面の黒い雲に乗って、大空をかけめぐるおそろしい龍のすがたであった。
みるからに、風の音、龍のうなり声の聞こえてくるような絵であったが、男はよくこの絵をぼんやりと見ておったと。
こうして、この大寺には、へんな男がとまりこんだほかは、のんびりとおだやかな毎日が続いておった。
ある日、小僧(こぞう)が和尚さまに、「あの男は、毎日遊んでばかりいます」とふそくそうに口をとがらせて申しあげたら、「まあ、ええからすてておけよ。
そのうち気が向けば、しごとをされることだろう」と、いっこうに取りあげてくださらない。 ある晩(ばん)、夕方から急に空がくもり、かみなりが鳴って、はげしい雨がふってきた。
お寺は戸じまりをして、みんな休んでしまった。
ところが男は、なにを思ったのか、戸をあけて外へ飛びだしたと。
そして雨にぬれるのもかまわず、庭石にこしをかけて、あれくるう空を、こぶしをにぎりしめ、にらむようにながめていた。
それはなにかにとりつかれたような、かっこうであったそうな。
それからなにを思い立ったものか。男はへやにとじこもると、だれにも会わず、太い材木にむかって「のみ」をふるい始めた。
昼はもちろん、夜もコツコツと木をほる音が、そのへやからひびいてきた。
何日かたって、やがて男は、ぱらぱらと木のくずをはらいながら出てきた。
「なにをほったのやろ?」。
寺の人たちは、さっそくへやへはいっていった。
見ると、そこには一匹(いっぴき)の龍が横たわっておった。
らんらんと目を光らせ、大きな口をあけて、今にもうろこを波打たせて動きだすかと、思うばかりである。
「ほう」と、みなは息をつめて、そこに立ちすくんでしまった。
「龍門寺に龍のほりものができたぞ」とのうわさがつたわると、村人はみんな見にきた。
そしてそのりっぱなできばえを、口をそろえてほめるのであった。
男はべつにうれしい顔をするでもなく、「のみ」をふくろにしまいこむと、ひょっこり都へ向かって出ていってしまったそうな。
和尚さまは、この龍を大門の高いところにかざることにした。
それができあがると、またひょうばんになって、おおぜいの人が見にきた。
ところが、それからしばらくすると、たいへんなことがもちあがった。
「龍門寺の龍が夜、ぬけだして、あばれ回っとるらしいぞ」「月夜に大淵(おおぶち)のところを通ったら龍が角をふり立てて泳いどった」ということや、また、「たんぼの道を歩いとると、イネがざわざわ動いてな。
びっくりして立ちどまると、目の前を大きな龍がうろこを光らせて横ぎってった」というような、ぶっそうな話であるが、どうもほんとのことらしい。
だんだんさわぎが大きくなってきた。そのうち田畑があらされて、つくりものがとれなくなったという。
「こまったことになったぞ。夜はこわくて、出て歩けん」「せっかくほってもらった龍が、こんなにあらびては、農作業もできんわ」「なんとかおとなしくする方法はないんか」。
しまいには、「鉄砲(てっぽう)でうったらどうじゃ」という者もでてきたが、和尚さまはうでを組んで、「いや、いや、これはお寺のことだから、お経(きょう)の力でふうずることにしよう」と言われた。
そして大門の前に壇(だん)をつくり、おそなえものをして、声高らかにお経を読み始められた。
そのお経は長く長く続いて、とうとう夜も明けはなれたということじゃ。その一心の力によって、それからはふしぎと龍はおとなしくなって、もうあらびることもなくなったと。喜(よろこ)んだ村人たちは、大門のそばに池をほり、これを龍が池と名づけ、そこにほこらをつくって龍神としておまつりした。
こうして村は、おだやかなもとのすがたにもどったそうな。
あの男は、いったいだれであったろうか。しっかり名前を聞いた者はいなかったが、いつとはなしに、村人の間には、「あれはきっと、左甚五郎(ひだりじんごろう)だったにちがいない」という、うわさがひろがった。
今も龍門寺の大門には、その龍が目をいからせ、大きな口をあけて、今にも動き出すような、ものすごいすがたを見せている。
(岐阜県小中学校長会編集(へんしゅう)「続・美濃と飛騨のむかし話」より引用)
提供元:岐阜新聞
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