「成績はいいのに、ちょっと注意されただけで固まってしまう子がいます。友だちは多いけれど、トラブルが起きると喧嘩になってしまう子もいます。一方で、勉強はそこそこでも、失敗から自分で気持ちを立て直せる子は、ぐんぐん伸びていきます」
そう語るのは、現役の小学校教員として、長年子どもたちに向き合ってこられた先生です。
その違いは何か?――
「自分の機嫌を自分でとれる力」があるかどうか。
この言葉に、私はとても大切な仏教の視点がこめられていると感じました。
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■ 心が世界をつくる
お盆によく唱えるお経、開甘露門の中に「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」という言葉があります。
すべてのものごとは、心によってつくられる、という意味です。
同じ出来事が起きても、心が安定していれば「まあ、こんな日もある」と受け止められる。けれど、心が荒れていれば、ささいな言葉にも傷つき、世界が敵に見えてしまう。
つまり、わたしたちは「外の出来事」に苦しむのではなく、「それをどう受け止めるかという心のはたらき」によって、自ら苦しみをつくり出しているのです。
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- ■ 坐禅とは、心の稽古
この「心のはたらき」に気づき、静めて、調えていく修行が、わたしたち臨済宗の基本である「坐禅」です。
坐禅といっても、むずかしいことはありません。姿勢を正し、呼吸をととのえ、今この瞬間に自分をおさめる。ただそれだけの実践です。
最初のうちは、いろんな雑念が湧いてきます。「あれをやり忘れた」「あの人に言われたあの言葉…」など、心は勝手にあちこちにさまよいます。けれど、それに気づいて、また呼吸に戻る――それを繰り返すうちに、だんだんと「今、ここ」に戻る力が育っていくのです。
これは、まさに「自分の機嫌を自分でとる」ための稽古ではないでしょうか。
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■ 子どもたちが教えてくれたこと
ある先生が紹介していたエピソードに、こんな話がありました。
問題行動の多かった男の子が、ある日、日記にこう書いたのです。
「今日はイライラしたけど、トイレで深呼吸したから大丈夫だった」
先生はその子にこう声をかけました。
「すごいね。自分でイライラに気づいて、落ち着く方法を見つけたんだね」
それ以来、その子は「自分をごきげんに戻す工夫」を日記に書き続けたそうです。叱られたからやめたのではなく、自分で気づき、自分で心を整える力を育んでいった――これこそ、仏教が大切にしてきた「心の教育」そのものだと思います。
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■ 生活信条に込められた願い
妙心寺派の「生活信条」の冒頭に、こうあります。
一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう
この一文に、仏道の核心が表れています。
慌ただしい日々の中で、たった数分でもよい。
静かに坐り、呼吸を感じ、心を調える時間を持つ――それだけで、人は少しずつ変わっていきます。
「自分の心が整えば、まわりも変わって見える」
「自分の呼吸が落ち着けば、出来事の受け取り方も変わる」
それは、「自分をごきげんに保つ力」を育てることにもつながるのです。
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■ 自分にやさしく、他人にやさしく
誰かに優しくしたい。誰かの力になりたい。そう思ったときこそ、まずは自分の心を満たすことが大切です。
「自分なんて」「まだまだダメだ」と自分を責めていては、心に余裕がありません。
だからこそ、坐禅という静かな時間の中で、自分をいたわる。自分の気持ちに気づく。呼吸を深める。それが、人にやさしくできる力の土台になるのです。
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■ 最後に
これからの時代、AIや機械には真似できない「人間らしさ」がますます問われていくでしょう。
失敗しても、「まぁ、そんな日もある」と立ち直れる力。
他人と比べても、「人は人、自分は自分」と自分に戻れる心。
そうした「心を調える力」こそが、人間が生きていくための根っこです。
どうか、今日一日のどこかで、深く息を吐き出し、心を静める時間を持ってください。
自分の呼吸をととのえ、心を調え、今日という一日を丁寧に受け止める。ごはんを味わい、お茶をゆっくり飲む。眠る前に、今日の「ありがとう」をひとつ思い出す。そうしたささやかな習慣が、「ごきげんな自分」の土台になります。
きっとあなたの「ごきげんの根っこ」を育ててくれるはずです。
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