
秋が深まると、どこか心が静まり、本を開きたくなります。木々が葉を落とすように、私たちも少し立ち止まり、自分の人生の残り時間を見つめたくなる季節です。
ページの向こうに出会う言葉や人の生きざまが、ふと自分の中の仏心を照らしてくれることがあります。たとえば、詩人・画家の星野富弘さん。不慮の事故で首から下が動かなくなりながらも、口に筆をくわえて描いた詩画の世界には、「生かされていること」への深い感謝があふれています。
『鈴の鳴る道』や『いのちより大切なもの』、そして『ありがとう私のいのち』。どの一冊にも、星野さんの静かな祈りのような言葉が流れています。
「そうか神様に 生かされていたのか そう気づいた時 道端の花が 輝きはじめ 苦しみにも 悲しみにも どんな小さなことにも 意味があったのを知った」–生かされて つわぶきの花–
この詩句に触れるとき、仏教で説く「平等性智(びょうどうしょうち)」の心が思い浮かびます。それは、人生で「いいこと」も「悪いこと」も経験した上で、それでもなお、どんな境遇にあるいのちも等しく尊いと、心の底から頷ける智慧です。
一方で、筋ジストロフィーという重い病を抱えながらユーモアを忘れず生きた鹿野靖明さんの姿もまた、現代の菩薩のように思えます。彼の生きざまは、渡辺一史さんのルポ『こんな夜更けにバナナかよ』などに描かれています。
鹿野さんは、介助者たちと共に日々を笑い、時に衝突しながらも、他者と生きる意味を体現しました。真夜中に突然「バナナが食べたい」と介助者を困らせるなど、彼の「わがまま」は筋金入りでした。しかし、それは「生きたい」という根源的な欲求を隠さなかった証であり、また、人間の本質を映し出す「割れない鏡」のような役割を果たしたのです。自立とは「一人で生きること」ではなく、「支え合いの中で共に立つこと」だと教えてくれます。
星野さんも鹿野さんも、いのちを「誰かのために燃やす」ことの尊さを伝えています。これは、仏教でいう「成所作智(じょうしょさち)」――すなわち、自らの経験(悟り)を人々の幸せのために具体的に生かす智慧――に通じます。体が不自由でも、失敗を重ねたとしても、いのちは他者のために働く力を秘めているのです。
人は、悲しみや苦しみを通してこそ、「見えないものが見える」ようになるのかもしれません。
鏡が曇りを拭われて澄むように、仏教では「大円鏡智(だいえんきょうち)」と呼ばれる智慧が心に現れます。出来事を善悪で裁かず、ありのままに映す心。星野さんの詩にある「どんな花も咲いていいんだ」という言葉は、人生のすべてをあるがままに受け入れるこの智慧の響きそのものです。
また、鹿野さんが介助者との関係の中で見せた人間理解の深さは、「妙観察智」を思わせます。人の心を細やかに観察し、その苦しみを我がこととして受けとめる知恵。彼の強烈な「我(煩悩)」が、介助者たちの「遠慮」や「建前」を打ち破り、互いの本質をさらけ出させました。まさに「煩悩即菩提(煩悩こそが悟り)」を体現したような生きざまです。彼のまなざしには、他者の痛みに寄り添う仏心が宿っていました。
この四つの智慧は、すべて仏の心の働きで「四智円明」といいます。しかし、それは遠い悟りの境地ではありません。私たち一人ひとりの中にも、静かに息づいています。
誰かの優しさに救われたとき。
孫の屈託のない笑顔に触れたとき。
自分の無力さを受け入れ、なお誰かを思いやるとき。
その瞬間、仏の智慧は確かに働いています。
秋は、いのちの光と影を見つめる季節。
読書の時間は、他人の人生を通して自分のいのちを見直す機会でもあります。星野さんや鹿野さんのように、限られた時間の中で「感謝」と「他者へのまなざし」を育てていくことが、残りの人生を輝かせる仏道の一歩になるのではないでしょうか。
ページを閉じるとき、心に残る言葉があります。
「いのちは、与えられ、支えられ、そして誰かを照らすためにある。」
そう、あなたの人生は、悲しみも含めて誰かを照らす光です。読書の秋、ぜひ二人の生きた証に触れ、あなたのいのちの光を再確認してください。
【参考文献・出典】
• 星野富弘『鈴の鳴る道』(偕成社)『いのちより大切なもの』(いのちのことば社フォレストブックス)『ありがとう私のいのち』(学研パブリッシング)
• 渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』(北海道新聞社)『なぜ人と人は支え合うのか-障害から考える』(ちくまプリマー新書)
