般若心経

色即是空 空即是色 〜ご縁に包まれて ご縁に生きる〜

般若心経といえば真っ先に思い浮かべるフレーズは「色即是空」という方もおられるのではありませんか。

 

「色即是空、空即是色」まず音の響きがいいですよね。

元々はインドにあった経典です。それを中国の方が漢文で翻訳されました。般若心経は多くの方が漢訳されましたが、私たちが読んでいるものは西遊記で有名な玄奘三蔵法師が翻訳をされたものです。

さらに和訳すると、「色はすなわちこれ空なり、空はすなわちこれ色なり」と読むことができます。辞書で意味を調べてみると、「この世にあるすべてのものは因と縁によって存在しているだけで、その本質は空であるということ。また、その空がそのままこの世に存在するすべてのものの姿である」とあります。

念のため申しますと、「シキ」とは「いろcolor」ではなく「色」というのは中国語なので日本語になおすと、物体、形あるものを色と訳されました。体とか頭、髪の毛など、大小は関係なく見えるものは色です。ややこしいですが、古典を読むときは時代背景を探っていくと理解しやすくなります。

お釈迦さまは世の中のことは、因と縁の結びつきによって生じ起こる因縁生起と説かれました。それを略して「因縁」または「縁起」といっております。

私たちは「因」というと「果」をすぐに結びつけて考えがちです。結果が良い悪いと、すぐに原因は何だ。となりがちですが必ず縁が関わっているのです。

例えばここに一粒の花の種があるとします。これをこのままにしておいては、いつまでたっても一粒の種です。でも、これを蒔くとします。蒔くといっても、火の中や石の上に蒔いてはダメです。冬の寒い時期に蒔いてもダメです。蒔くべき時に、よく耕された土に蒔く。そして適当な肥料や、雨、日光といったぐあいに、様々な縁が加わることで、花を咲かせていきます。ハチに花粉を運んでもらい、また果実がなればその実が熟すことで種が落ちる。この一粒の種から壮大なドラマが生まれてきます。これが空ということ。それは「私」でもあると思うのです。

「舎利子見よ 空即是色 花盛り」般若心経を解説した本を見ると、多くがこの小笠原長成という方の詩を紹介しています。空だ空だ。虚しい虚しいというけれど、それであればこそ花が咲くというもの。無常と無我によって、その「空」よって、私たちは生きていけるのだ。「散ればこそ いとど桜は めでたけれ うき世になにか 久しかるべき」というのもあります。

虚しいものであればこそ価値があるとの教えが含まれているように感じます。

ところで、因果応報って言葉がありますがどのように思われますか。善因善果悪因悪果って本当でしょうか。

あんないい人がはやく亡くなったり、かといって長生きするひとは悪い人ばかりでもないわけで。

しかし、仏教では「因果の法則は、三世に及ぶ。」ともいいます。つまり、原因は必ず結果としてあらわれます。次の世代、さらに次の世代と、いつあらわれるかわからないが、いずれにしても、必ず善因は善果と、悪因は悪果となってあらわれます。

原因と結果は、様々なめぐりあいで生まれる縁によって複雑に入り組んでいるため、計り知れないということです。わからないのが真実なのでしょう。わかりようがなければ、その結果を、自分に起こっている現実をそのまま受け入れていくしかないと思うのです。それは過去の原因を、変えることができないからです。

私たちにできることは、今のそのまんまの自分をありがたいと受け止め、将来に向けて良い種を蒔くことの他にはありません。

新聞やテレビの報道でご存知のように、IPS細胞やAI人工知能といった医療や科学の進歩は加速を増しているようです。スマートフォンではAmazonやGoogleが日常になっています。欲しい物や情報はすぐ手に入る。というか、次から次へと関連したものが現れてきます。お腹が減る前に次々と気が付かないで食べて、常にお腹がいっぱいの状態です。

自分にないものを求めるのが、迷い苦しみの種です。自分にすでにあるもの、具わっているものを「ありがたい」と気づくことが悟りの種でありましょう。

「生まれたことの不思議 生きていることの不思議 両手を合わせる」

これほどの不思議はありませんよね。

お互いとお互いが、持ちつ持たれつ、そして、お一人おひとりが、今こうして生きていることは、どれだけのご縁と、出会いと、めぐり合わせの結果かと思うと、手をあわせずにはいられません。

 

 

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