「いのちに手を合わせる 〜大阪・関西万博をたずねて〜」
大阪・関西万博では「いのち輝く未来社会」を願って、世界の英知が集まっていました。「いのちを救う」「いのちに力を与える」「いのちをつなぐ」そんな言葉に触れながら、自分が生きているという尊さ、不思議さをあらたに胸に抱きました。
印象に残ったのは、「いのち動的平衡館」です。細胞が生まれ変わり続けることで生命が維持されていること、「今の私」と「明日の私」は厳密には同じではないということ。こうした視点から、「いのち」と「死」は対立するものではなく、ひとつの流れとしてあることが示されていました。
これは、仏教が説く「諸行無常」「諸法無我」と深く通じています。すべてのものは変化し、実体はなく、つながりの中で生かされている。だからこそ、今この瞬間を大切にしなければならないのだと、あらためて感じさせられました。
妙心寺派の「生活信条」には、こうあります。
一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう
生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう
華やかな万博の会場を一日歩いたあとに、この言葉が胸にしみました。技術や未来の展示は確かに目を引きます。しかしそれ以上に、光と音の喧騒のなかで、静かにいのちに思いを寄せる時間こそが、尊く感じられたのです。
「いのち未来館」では、ロボット技術のアンドロイドが登場し、人と機械の境界を問う試みがなされていました。
面白いのは、会場の入口に仏像や土偶など古代の偶像が展示されていたことです。それらは祈りや願い、畏れとともに「いのち」を与えられてきた存在でした。仏像はまさに、祈る人の「思い」によって仏とつながる存在です。
人々が仏に手を合わせるとき、ただ木や金属の像を見ているのではありません。その奥にある「衆生は本来仏なり」との信心が、拝む心を支えているのです。
わが身をこのまま空なりと観じて、静かに坐りましょう
衆生は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう
これは妙心寺派の「信心のことば」ですが、まさに現代技術と人間の関係を考えるうえでも、ひとつの光明を与えてくれます。
人間の形をしたロボットに「いのち」を見いだすかどうかは、私たちの「まなざし」にかかっているのかもしれません。
他にも、iPS細胞から作られた「心臓」が脈打つ展示や、静けさの森での植樹など、多くの工夫がされていました。しかしその一方で、「この体験が、私たちの日常とどうつながっていくのか」という問いが、心に残りました。
日々のくらしは、万博のような非日常の舞台とは異なり、静かで、単調で、時に退屈なものかもしれません。しかし、仏教はその日常の中にこそ、いのちの光を見いだす道を示してくれます。
華やかな未来像に心躍らせながらも、結局わたしたちは、毎朝起きて、ごはんを食べて、誰かの声を聞き、静かに坐る。そうした日常のなかでこそ、「いのち輝く社会」は形づくられていくのだと思うのです。
私は、「いのちに目を向ける心、いのちに手を合わせる心」それらを、次の世代にそっと手渡していきたい。
そんな願いを胸に帰路につきました。
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