
「花の前で、ふと気づくこと」
春になりますと、庭の桜が一斉に花を開きます。
気がつけば咲きそろい、気がつけば風に舞っている。
あまりにも自然なその移ろいに、
私たちはただ立ち止まり、しばらく眺めてしまいます。
桜は、葉を出す前に花を咲かせます。
そして満開を迎えると、ほどなく散っていく。
そのことを知っていても、
いざ目の前にすると、毎年少し驚かされます。
どうして、あんなふうに一斉に咲いて、
あんなふうに、ためらいなく散っていくのだろうか――と。
考えてみれば、私たちは、
もう少し準備が整ってから、とか、
もう少し落ち着いたら、とか、
何かと「そのうち」を待ちながら過ごしています。
けれど桜は、そうしたことを待たずに、
与えられた時の中で、すっと咲いてしまう。
その姿を見ていると、
何かを急かされるわけでもないのに、
少しだけ背筋が伸びるような気がします。
――そんなことを思いながら、ある日、
床の間に活けられた椿に目がとまりました。
艶のある葉の中に、静かに咲いている花です。
桜のような華やかさはありませんが、
よく見ると、葉がしっかりと花を支えている。
花だけを見ていた時には気づかなかったのですが、
その後ろにあるものに、ふと目がいきました。
咲いているものの後ろには、
見えにくい支えがあるのかもしれない――
そんなことを、ぼんやりと思いました。
さらに椿は、時が来ると花ごと落ちるのです。
それもまた、どこかで聞いたことはありましたが、
改めて思い浮かべてみると、不思議な感じがします。
散るというより、離れていくような姿です。
無理にとどまらず、
けれど急ぐでもなく、
ただ、その時が来れば離れていく。
そういうあり方もあるのだなと、
しばらくそのまま眺めていました。
庭の桜と、床の間の椿。
どちらがどうというわけでもなく、
それぞれが、その場所で、その時に合った姿を見せている。
ただそれだけのことなのに、
なぜか心に残るものがあります。
禅の言葉に「随処作主」という言葉があります。
どこにあっても、その場で自分を生きる。
(出典は禅宗の開祖、臨済義玄(りんざいぎげん)の言行録『臨済録』)
花のことを思いながらその言葉に触れると、
少し違った響きに感じられます。
どこか特別なところに行かなくても、
何かを大きく変えなくても、
今いるところで、咲いてみる。
そんなことも、あるのかもしれません。
桜を見上げたときも、
椿の前に立ったときも、
何かを教えられた、というよりは、
あとになって、ああそうかと思う。
花というのは、そういうものなのかもしれません。
気づかせようとしているわけでもなく、
ただそこにあって、
見る者の中に、そっと何かを残していく。
その残ったものが、
ある日、ふと形になる。
そんなことを思いながら、
来年もまた、庭の桜を見上げているかもしれません。
