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鳴門の渦潮を見てまいりました。
耳に響く水の音、目の前でうねる流れ――まさに圧倒されるような光景です。
けれど、しばらくその場に立ち、じっと眺めておりますと、
ふと、不思議な思いが湧いてまいりました。
水はただ一方向に流れているのではなく、
ぶつかり、もつれ、ほどけ、また結び直されている。
あれほどはっきりと「渦」の形をしていながら、
ほんの少し目を離せば、もう別の姿へと移っていきます。
確かにそこにあるようでいて、つかまえることはできない。
現れては消えていく――
その移ろいそのものが、渦の正体なのだと感じられました。
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興味深いのは、あの渦が「差」から生まれているということです。
潮の高さの違い、流れの速さの違い。
そうしたわずかな”ずれ”があるからこそ、水は動き、
あのような大きなうねりとなって姿を現します。
私たちの日々も、どこかそれに似ているのではないでしょうか。
人と人との違い、考え方の違い、暮らし方の違い。
その「違い」があるからこそ、言葉が交わされ、
助け合いが生まれ、物事が動き出していきます。
もしすべてが同じで、何の隔たりもなかったなら、
かえって何も起こらないのかもしれません。
違いがあるからこそ、出会いがある。
海峡の流れは、そのことを静かに教えてくれているようでした。
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一方で、私たちは何か良いことがあると、
「このままであってほしい」と願い、
手の中に留めておきたくなります。
けれど、渦は水そのものではありません。
水の働きが、ひととき形となって現れているだけのものです。
条件が整えば現れ、
条件が変われば、また静かにほどけていく。
それを無理につかもうとするから、
かえって苦しさが生まれるのかもしれません。
海の前に立つと、
つかもうとする手を、そっとゆるめるほかありません。
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写真を撮ろうとしても、なかなか思うようにはいきませんでした。
「今だ」と思ったときには、すでに形は変わり、
次の流れへと移っています。
ただ一点に目を定め、
力を抜いて、現れる気配を待つ。
そうしてようやく、
ふとした瞬間に、渦は姿を見せてくれるのです。
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あのとき海峡に立っていた私も、
渦と同じように、さまざまな縁の重なりの中に生かされている。
そう思うと、激しく渦巻く流れも、
どこか懐かしいものに感じられてきました。
一瞬一瞬を、いただいて生きている。
この感覚を忘れぬよう、また日々を歩んでまいりたいと思います。
